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選択、意思、自由について

11 分前
読了時間: 4分

ランダに、何年も育てているセージの鉢がある。


私はできるだけ手を加えすぎないようにして、その成長を眺めている。


夏に雨が少なかった年には、全部枯れてしまったように見えたこともあった。

けれど、土の中の根は生きていたのだろう。


雨が降ると、枯れた枝から一枚、また一枚と葉が出てきた。そしてまた光に向かって枝を伸ばし、少しでも多く光を受けるように葉を広げていく。


傷ついた古い枝と新芽が入り混じった、いわゆる「美しい」とは言い難い鉢植えになっている。


そのセージは、何度枯れかけても太陽に向かって枝を伸ばす。


自分を生かしもすれば、殺しもする太陽に向かって。

しつこく、何度でも。


植物の性質だからそういうものだ、と言えば、それまでなのかもしれない。


光に向かって枝を伸ばし、根を張り、乾けば耐え、条件が整えばまた芽を出す。それは、生命を保つために自然と現れるセージの動きなのだろう。


私の場合はどうだろう。


自分や身の周りの人たちの生命や生活を守るために向かう方向。不安や恐怖や痛みを避け、より安全な方へ、より有利な方へ伸びていく判断。


あるいは、人の群れが、その集団を存続させるために選ぶ方向。


植物が光の方へ枝を伸ばすように、私もまた、自分を生かす方向へ伸びようとしている。


そして私は、その方向を「自分の意思で選んだ」と思っている。


でも、改めて考えてみると、少し分からなくなる。


育った環境や、過去の経験、学んだ知識、身体の状態、欲求や恐れ、誰かの言葉や社会の価値観。


そういうものへの反応が、枝を伸ばす方向を決定づけているだけなのかもしれない。


もしかすると、私たちは、自分や集団が生き続けるために伸ばしている枝の向きに、「意思」という名前をつけているだけなのかもしれない。


それでも私たちは、毎日選び続けている。


何を食べるか。

誰と過ごすか。

何を身につけるか。

どこへ行くか。

何に時間を使うか。


一つを選ぶことで、その一つが自分の現実になり、それ以外の可能性からは離れていく。


今、この文章を読んでいる時間も、ほかの何かに使うことはできた。けれど、その時間はもう戻らない。


選ぶということには、獲得と放棄が同居している。


選び直すことはできても、はじめに選んだその瞬間に巻き戻ることはない。どんな小さな選択も、一生一度の選択であり、それぞれの重さがある。


もちろん、私たちはすべてを自分一人で判断しているわけではない。


仕事では組織や上司の指示に従い、何が許されるかを法律や規則、道徳、宗教的規範、社会の習慣などに委ねることもある。


それは有用なことでもある。あらゆることを一から判断する負担を減らせるし、その基準には、自分一人では経験しきれないほど多くの過去の事例や知識が蓄積されている場合も多い。


だから、委ねること自体に問題があるとは思わない。自分で判断したうえで従うなら、委ねることも一つの選択なのだ。


けれど、主体的に選んだとは言い切れないこともある。


例えば、幼い頃に親から教えられたことが、いつのまにか判断の土台になっている。その土台は、自分で選んだわけではない。大人になって苦しんでいても、簡単に離れられるとは限らない。


ほかの選び方があることさえ、見えていないこともあるのだろう。


ただ、そのことに気づいたなら、そこからどうするかは、自分の判断に関わってくる。すぐに変えられなくても、何か工夫を始める余地はあるのかもしれない。


そもそも、自分の選択とは関わりなく、人生に起きることもある。


戦争のように、望んでも選んでもいないことによって、生活が根本から変えられてしまうこともある。その責任まで、自分のものとして自省せよという話ではない。


けれど、選んだことも、選べなかったことも、自分の人生に起きたこととして経験する。その経験を、誰かに代わってもらうことはできない。


そうして自分に起きたことを、自分の人生として引き受けていく。


それは、起きたことを肯定することでも、すべて自分のせいだと思うことでもない。抵抗することも、逃れることも、誰かに助けを求めることも含めて、この人生を生きていく。


ベランダのセージは光に向かって枝を伸ばす。


それを「意思」と呼ぶことは、おそらくない。


人間は、何かに反応し、何かを避け、何かを求めながら方向を決める。そして、その動きを「自分の意思」と呼ぶ。


その違いは、本当はどこにあるのだろう。

そもそも、違いはあるのだろうか。


自分で選ぶことと、流れに委ねること。その境界も、私にはよく分からない。


自分が伸ばした枝の先で何が起きるのかも、自分だけで決められるわけではない。


それでも、そこで起きることを経験するのは、自分だ。


だから私は、選ぶ。

あるいは、委ねる。


選べないまま、起きてしまうこともある。


それでも自分には選択の余地があると自覚しながら、選んだことも、選べなかったことも、自分の人生として引き受ける。そのことに納得している。


私にとって自由とは、もしかすると、そういうことなのかもしれない。

品部東晟

 
 
 

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