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【禅語】而今(にこん)

  • 執筆者の写真: 葵 品部
    葵 品部
  • 3 日前
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更新日:2 日前

而今(にこん)


「にこん」あるいは「じこん」と読みます。曹洞宗の開祖、道元禅師がその著書「正法眼蔵」でとなえた言葉です。直訳してみると、単に「今」ではなく、「すなわちこの一瞬」というような意味と解釈されています。

禅宗においては、一般的な「時」というものの捉え方と違った「時」の捉え方をします。私たちは通常、「時」というものは過去から現在、未来へと一方通行で過ぎ去っていくものというように捉えているでしょう。しかし禅宗においては、今現在の「この一瞬」ではない過去や未来は、一人一人の頭の中だけにある妄想のようなものとして考えます。


少し噛み砕いてイメージしてみます。禅の考え方では、この世界に存在する全てのものは因縁で繋がっているため、世界の「どの一部分」を切り取ってみても、そこには世界の全てが表現されていると考えます。この「どの一部分」には、例えばその辺に生えている草一本や、机の上の鉛筆一本、もちろん私自身も含まれます。すると、「世界=私」という等式が成り立つと考えることができます。


また同じように考えると、一般的にイメージする過去のあらゆる出来事や未来のまだ起きていない出来事は、全て「今この瞬間」の現実に全て含まれていると考えることができます。「過去の出来事」は、すでに過ぎ去り、頭の中だけの記憶です。「未来の出来事」もまた、まだ起きておらず、頭の中だけの想像です。過去や未来は、現実に存在しない「妄想」のようなもので、あるのはただ「今この一瞬」の現実のみということになります。つまり、私たちが「時」という言葉からイメージする概念は、頭の中だけにある概念にすぎず、私が存在しなければ存在しません。なので「時」とは、今この瞬間に目の前に立ち現れている「存在そのもの」であると理解するのです。すると、「時=私(あるいは存在)」という等式が成り立つと考えることができます。

以上を踏まえると、禅の世界ではこんな等式が成り立つことになります。


「世界=私=時」


私たちが一般的な生活を送る上で、「世界=私=時」といわれても、なかなかピンとこない感覚だと思います。あまりにも当たり前すぎて、疑いなく日々それに則って生活してきた前提(常識)を、あえて疑ってみるというのは、とても難しいことです。そこを疑い、目の前にある現実を参照しながら、自分なりの解を導き出す。坐禅はそんな技術だと思っています。


「世界=私=時」


坐禅のお供にいかがでしょうか。 品部東晟


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