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香りと坐禅

  • 執筆者の写真: 葵 品部
    葵 品部
  • 8月26日
  • 読了時間: 2分

は坐禅をしているとき、おだやかに感覚を研ぎ澄ませて、あらゆる現実を感じ、考え、探究し、そして身を委ねています。積極的にそうしている場合もあれば、受動的に気づく場合もあります。じっと坐っているので、身も心も次第に落ち着き、いつのまにかそのような状態になっていたと後から気づくこともよくあるのです。どちらにしても、精神的にも身体的にも、穏やかな高集中状態になっています。この穏やかな集中状態を感覚的に表現すると、身体や意識の感度が鋭敏になり、解像度が高まっているような感覚です。


この高まった解像度で「いつもの当たり前のできごと」を観察し直してみると、さまざまな発見があります。

例えば、肌を撫でていたが気づいていなかった風の感覚、いつも聞こえていたはずなのに聞いていなかったの虫の音、視界に入っていたはずなのに見ていなかった小さな花。

実際そこに存在するのに、意識が拾っていなかった現実に気づきます。

そして、ほとんど無意識で日常を過ごしている自分に愕然としつつ、本来自分の体が持ち合わせている感覚の解像度の高さに驚かされるのです。


東京、目黒のHIGASHI-YAMA Studioにて、「香りと坐禅」という一炷を坐りました。坐禅の高集中状態を、香りにむける時間です。

「ほのかな天然の香りを身にまとう」ために調合されたOGATAのYOKAという香りを聞きました。

香りだけに意識を向け続け二十分ほど坐ります。一緒に坐った皆さんは、そもそも嗅覚だけに集中し続けるということ自体が人生で初めてだったそうで、自身の嗅覚や、嗅覚に紐づくにさまざまな感覚に再発見があったようです。

伝統的なお香に使われる天然由来の原料を独自に調合した香りは、「こちらの感覚の扉をこじ開けられ気付かされるような香り」ではなく、「こちらから迎えにいくことで初めてその深みに気づくことができる」ような香りでした。繊細な香りを道標に、自分の嗅覚や、嗅覚に紐づいたさまざまな感覚の変化を観察していると、次第に自身の感覚が嗅覚を軸に全体的に鋭敏となっていくことを実感しました。


弄花香満衣。

花を弄すれば香衣に満つ。


鼻だけで香りを嗅ぐのではなく、全身で香りと共鳴するような、そんな感覚を共有できたと思っています。


そもそも感覚は絶対的なもの。人と比べられるものではないでしょう。死ぬまで感動したい私にとって、自らの感覚の解像度を探究することは、世界の彩りが増すことと同じです。


次の一炷は、どんな一炷になるのか。楽しみです。


品部東晟


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