令和七年春 弄花香満衣
- 葵 品部
- 4月11日
- 読了時間: 2分
更新日:7 日前
京都の桜は見事に満開。花もひともにぎやかなこと。
私が住んでいる祇園あたりはこの時期、祭りのような賑わいである。
街なかから半時間ぐらい、北に車で走ったところに、大原という土地がある。北上するにつれ賑わいは落ち着き、街からひと山越えた大原は、人の喧騒とは別世界となる。
街の桜は満開だが、大原の桜は蕾がまさに今はじけるところだ。
大原に、小さな禅寺がある。
正法庵(しょうぼうあん)という。
そもそも禅寺は相対的に飾り気が少ない。とはいえ、この正法庵は一見すると寺とはわからないほど。
要するに”過剰さ”の対極にある禅寺である。
そんな正法庵をあずかるのは、泰(たい)さん。私の僧堂での修行時代の先輩でもある泰さんは、何のこだわりもない雲のような禅僧だ。
“日常生活”という酔いから、”素面(しらふ)”になる機会を持って欲しい。そういう思いから、私は求める人に坐禅という技術をお伝えしている。その意味で正法庵は、まさにうってつけの場所だと思っている。
ところで私たちは、自分を自分だと思っている感覚を、当たり前に持って日々生活している。いわゆる”我”という感覚である。そういうものから離れてみようと思う時、坐禅という技術において私が大切にしているのは、今まさに坐っている自分の身の回りの現実に身を晒し、自分のペースから離れ、場のリズムに身を委ねてみることである。
大原という土地と正法庵には、この”委ねる”ということについて、そっと背中を押してくれる優しさがあるように感じている。
この正法庵で、大原の自然に身を晒す時間。そういう機会を仲間たちと共有している。
ゆるい坐禅で大原の風に身を委ね、程よく解けた身体と、解像度の上がった感受性をもって、この土地が育む草花や野菜を身体に入れる。内も外もこの土地に身を晒す。そんな経験だ。
ともすれば、あまりに抽象的で難解に思われがちな禅の感覚を、身体感覚を通じて感じ取ることのできる、一つのきっかけになると思っている。
この経験を、「弄花香満衣」と名づけることにした。
「はなをろうすれば、こうえにみつ」などと読む禅語である。
“花とたわむれていると、衣が香りにみたされる”という一場面を描写した禅語だ。自分と自分以外という分別は無い、ということを表現しているのだと私は解釈している。
花と戯れることで、花と自分とがひとつだったということに気づく。なんと自然で、なんと優しいきっかけだろうと思っている。
品部東晟

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